|
金蓮寺(こんれんじ)は、京都市北区にある時宗の寺である。山号は錦綾山。本尊は阿弥陀如来。 ==由緒== 1311年(応長元年)、浄阿真観が後伏見上皇の女御広義門院藤原寧子の出産に際し、効があり、後の北朝初代光厳天皇が誕生したことから、上皇から四条京極にあった祇陀林寺を賜り金蓮寺と改めたことに始まる。所在地から「四条道場」とも称される。『一遍聖絵』第七によると、祇陀林寺は境内の釈迦堂に一遍が訪れた一遍ゆかりの故地であった。 1424年(応永31年)に四条派として独立し、錦綾山太平興国金蓮寺とも称していた。後に時宗十二派に数えられる。 1356年(延元元年)、佐々木道誉がその宅地を元弘以来の一族の戦死者を弔うために寄進した。 1387年、足利義満は、佐々木道誉が寄進した寺地について、安堵の御教書も下して、外護の手を差し伸べる。中世において連歌・立花等がなされ、芸能・文化の中心ともなっており〔橘俊道・梅谷茂樹『一遍上人全集』(1989年、春秋社)、57頁注1。〕、大いに興隆していた。 また、1489年(長享3年)、足利義政の母日野重子の葬儀や、9代将軍足利義尚の葬儀が行われたり、翌年元6代将軍足利義教の荼毘が行われる等、足利将軍家との関係も深い。 しかし時宗遊行派の七条道場金光寺 (京都市)とどちらを本寺・末寺とするか、という確執は根深いものがあった。1424年(応永31年)金光寺との対立から、堂宇を焼失する。ここから「四条派」として独立していく。さらに足利義量没後、実質的に将軍とみられていた足利義持が、金蓮寺を金光寺の末寺とすべきだと勧告したため、信徒が7代浄阿を高野山に追放し、火を放つ。その後も、足利家の葬儀の際に対立を繰り返し、足利義尚の葬儀に金光寺側は参加せず、また足利義教の荼毘は金蓮寺で行われた後、金光寺で行われる。 堂宇は何度も焼失、再建を繰り返す。旧地での最後の火災は1864年(元治元年)の禁門の変の類焼であった。 歴代住持は浄阿弥陀仏を名乗る。18世紀末から寺域の切り売りがはじまり、売却地に料亭・飲食店・商店・見世物小屋が建ち、明治以降には繁華街と化し、新京極となってしまったが、寺自身は往時のおもかげを失い、寺運が傾いてしまった〔大橋俊雄『一遍と時宗教団』(教育社、1978年)249頁。〕。旧地には、塔頭の染殿院(染殿地蔵)のみが残り、その前に「時宗開祖一遍上人念仏賦算遺跡」の石碑がある。1928年(昭和3年)現在の京都市北区鷹峯に移転している。『浄阿上人絵詞伝』等の多くの什宝を今でも有している。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「金蓮寺 (京都市)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|